天使なブログ

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インガオホー

ネットを見てたら元寇って言葉を見かけたけど


よくあっちこっちで語られてる元寇って、根本的なところが抜けてるよね


元寇があったのは今で言う九州で
鎌倉があったのは今で言う神奈川
日本地図を見ればわかるけど、どこでもドアでもなければ、すぐ駆けつけられるわけないよね


つまり、元軍を撃退したのは九州の武士でぃすよね
九州の武士が朝廷の指示を得ずに独断で撃退した感じ
それを後から朝廷が事後承認したから問題ないことになってるだけ(京都も九州から遠いもんね)


天皇が何も指示してないのに勝った、だと朝廷の面目丸つぶれなので、天皇が起こした神風で九州軍を後押ししたので、九州と朝廷との共同作戦なので大丈夫だ問題ない、って話になってる感じ、みたいな
いわゆる大人の事情ってやつでぃすね


鎌倉よりも近い京都でも事態を把握するのが遅れたっぽいし
今より情報手段が限られてた時代じゃ、独断専行じゃないと間に合わないでぃすよね


あと、元寇が起こる前に、元から6回くらい使節団が送られてるんだよね
偉大なる蒙古の支配下にハイリナサーイみたいな内容のばっかりだけど
だからいきなりってわけでもないし、日本も元寇はまったくの不意打ちではなく、いちおー警戒はしてたんだよね

ちなみにそのときの朝廷の返事は
「蒙古?そんな国知りませんけど?
それよりあなたの言葉使いが恐ろしく聞こえるので気をつけた方がいいですよ
それと日本に並び立つものなど存在しないよ」
って感じで煽ってた


当時の皇帝クビライは6回目が失敗してから元寇を決めたんだけど、趙良弼って部下が一度は止めたんだよね
「臣は日本に居ること一年有余、日本の民俗を見たところ、荒々しく獰猛にして殺を嗜み、父子の親、上下の礼を知りません。その地は山水が多く、田畑を耕すのに利がありません。日本人を得ても役さず、その地を得ても富を加えません。まして軍船が海を渡るには、海風に定期性がなく、禍害を測ることもできません。これでは有用の民力をもって、無窮の巨壑(底の知れない深い谷)を埋めるようなものです。臣が思うに日本を討つことなきがよいでしょう」
でもその意見をやっぱり無視してやったのが元寇、みたいな


なんで元寇をしたかは諸説あるけど、有力なのは元は戦争に連勝続きでまだ攻めてなかったのが日本方面だけだったのと、高麗からの強い要望もあったせいって言われてるね
結果的には趙良弼のいうとおりになったけど


元軍が負けた最大の理由は、元が騎馬民族だったからって言われてるでぃすね
日本は島国なので、当然元軍は船で来るわけでぃすけど、船に馬ってあんまり数載らないのよね
だから元は騎馬民族なのに満足に馬を用意できずに戦う羽目になったわけで、大陸ほどの強さが発揮できなかったらしいし
対馬の80人の兵、壱岐の100人の兵、肥前沿岸の松浦党の数百人の兵までは圧倒できたけど、九州中の御家人たちが九州本土で準備万端で集結して以降では負けが多かったらしい)


たとえ馬が満足に使えなくても弓持ってるから有利なのでは?
ってゆー人もいるかもだけど、
当時の日本の主流な武装って、世界でも珍しい重装弓騎兵だったのでぃす


そもそも、大陸での元軍は常勝圧勝だったんだけど、それは先軍が軽装騎兵+合成短弓で、敵が突進すれば逃げて散開包囲し、逃げれば追い、常に白兵戦を避けて距離をキープして敵のアウトレンジから射撃しまくる、っていう、野生動物への狩猟みたいな戦い方だったの
仮に敵が弓が通じにくい密集重装歩兵でも、「てつはう」っていう火薬と鉄片を陶器に詰めた、大型手榴弾みたいなので爆殺してたわけ
先軍が無傷で一方的に猛射撃して敵を壊滅させたとこを、後から来る重装騎兵を先頭に中軍が突撃して蹂躙、が元の勝利パターンだったんでぃすよ
後軍は後方でのんびり補給部隊みたいな


ところが当時の日本って、重装弓騎兵同士で合戦する国だらけで戦争しまくってるような魔境だったの
そのせいで弓が世界最大で射程威力ともに高く、対騎兵射撃にも慣れてて、甲冑も対和弓仕様でめちゃくちゃ硬い
元軍が機動力で最適距離をとっても、日本にとっても射程圏だから、一方的にはならず弓の応酬になっちゃったの
日本も胴体を射抜く訓練をしてた上、日本のほうが弓矢の精度も高かった
元軍の短弓ではなかなか対和弓甲冑を貫けず、一方で日本の和弓は元軍の薄い防具をさくさく貫いちゃう
ただでさえ元軍は不利なのに、馬の数が大陸より限られてるから余計に不利になっちゃったっていう
しかも日本の弓って、めちゃ硬い相手の装甲を貫くために矢の先の部分をわざと重くしてたらしいし
なので元軍の矢避けの盾も普通に貫通しちゃってたので、元軍には日本の弓を避ける手段が存在しなくて一方的になりがちだったとか


「てつはう」はって?
あれって1つ4kgってめちゃくちゃ重い玉だからたくさん持てないし、重いから手投げだと遠くに飛ばせないから自分が巻き添えくらうし、のんきに投石器用意してる間に重装弓騎兵に攻撃されてアウトで、ほとんどまともに使えなかったと思うお


えっ?じゃあなんで対馬とかは負けちゃったのかって?
彼らは基本的に漁村民、たまに海賊になっちゃうくらいの兵力しか持ってなかったので、重装弓騎兵と戦うとか経験なかったし
当時の日本では一般人が武装してるとかよくあることだったし
秀吉が刀狩したがったのもそのせい


「八幡愚童訓」って書物では、八幡神の化身が元軍を破っており、日本の軍は一騎打ちなどの稚拙な戦法であった、って書かれてる眉唾ものの話があるけど、元寇で一騎打ちが行われたって話はそこからじゃないかって言われてるでぃすね


おまけに元軍は騎馬民族だから、船の扱いも日本ほど上手くなかったわけで
陸上では戦えても、船上での戦いでは弱かったらしいでぃすからね
まぁ海上戦に持ち込めたのも、九州中の御家人たちが元軍を海まで追い返したからだけど
いわゆる神風も、ずっと海上に船を停泊させたままで、しかも船の間を空けてなかったから、台風のさいにお互い衝突しあって被害が大きくなっちゃったっていう


元軍があきらめて撤退していたその頃鎌倉では、九州に元軍討伐のために兵を派遣しようか議論してて、議論が未だ決していない状態だったでぃす
なんでかってゆーと、大宰府と鎌倉までは飛脚を使っても知らせが届くのに12日半かかったので、元寇が終わった後に派兵するか議論してるって状態になったわけで
撤退が終わった後も幕府に撤退の知らせが届いてなくて、ずっと元寇への対応策やってたらしいし


まぁ二回目の元寇では元も船を大量生産して前回の3倍の戦力で攻めて来たから、いちおー鎌倉幕府の対応もまったくの無駄ってわけじゃないでぃすけど


1回目の神風で元の船はとてもでかいけど、脆くて壊れやすいって判明してたらしいけど、
2回目の元寇でもなぜかまた採用
また船の間を全然空けないまま長期間海上に停泊して
また台風に遭遇して
また味方の船に衝突して
4000隻の船が200隻に減る大事故になったみたいだけど


結局これが決定的な原因になって2回目の元寇も失敗に終わるのでぃすけど
これも九州の御家人たちが元軍に博多まで侵攻されてたのを海まで追い返した&日本海軍の嫌がらせ(病気の馬投げ込み、乗り込んで敵の首をかっきる)だけど、神風って言いたくなる気持ちわからないでもないかも
もっとも、仮に神風が来なかったとしても、その頃って鎌倉からの援軍として重装弓騎兵6万騎が元軍のいるとこに到着寸前だったみたいだし、結果は同じだったかもだけど
(鎌倉から九州に行くには複数の国を経由しないといけないけど、1回目は各国ごとに毎回通る許可をもらわないといけないからすごいタイムロスだったっぽい
なので1回目の後に各国に緊急時は通っていいって許可をもらってたので、2回目はかなり早めに到着してたっぽい)


元は3回目の元寇も予定してたらしいけど、2回目の台風で大半の軍船と大量の航海技術者を失った影響とかすごかったっぽくて無理だったっぽい
2回目で大量の船を造って、3回目はもっと大量に造ろうとしたら、大陸の木材が枯渇したっぽい
まぁ、50頭もの馬も乗せれるようなでっかい船を短期間に大量に造ればそうなるな


といっても、日本もただでは済んでないけど
元寇で日本は何の報酬も得られなかった上に、元寇と戦った御家人に褒賞を支払わないといけないし、元軍に壊された設備も修理しないといけないし、対元用にいろいろ設備投資したり、そこに配備する兵の給料を払い続けなければいけなくなって、財政破綻しちゃって、それが鎌倉幕府滅亡の原因の一つって言われてたりして


元寇って、両国ともに力尽きて終わりみたいな中途半端な終わり方でぃすね
まぁ大半の戦争はそーなんでぃすけど