天使なブログ

ゲームだったり本だったり徒然なるままに書くブログ

焼き芋

山伏極の修正は10月になるっぽい

帰還演出もそのとき見れるっぽい

 

煮たか先生が南海先生と肥前くんのイラストあげてたでぃすね

あのマフラーもしかして特命調査のときのアレでぃすかね

 焼き芋もってるのって陸奥守?

 

そーいえば食べる専門って設定あったでぃすね

江戸時代の江戸って大食いが流行してたっぽくて、大食い大会がよく行われてて一般人だけじゃなく武士も参加したりしたっぽいけど、元主は参加したことあるのかな

 江戸時代になってから農作物の大量生産ができるよーになったので、大食いも流行ったのかな

 

 せっかくなので焼き芋をメモる

サツマイモって、原産地は南アメリカ大陸のペルーで、16世紀に南アメリカ大陸に行ったスペイン人あるいはポルトガル人が東南アジアに持ち込んで、フィリピンのルソン島から大陸に持ち込んで、

そこから1597年に宮古島に伝って、17世紀前半に琉球に伝わって、1705年に薩摩に伝わったって説があるっぽい

 

 でも室町時代安土桃山時代にはもう大陸や東南アジアから直接、九州各地の貿易港や畿内の堺とかにきてたって説もあるっぽい

 薩摩藩で書かれた農学書の「成形図説」に、

1596年~1623年にかけて、領内の坊津港のポルトガル人との貿易で、ルソンからの交易品としてサツマイモが輸入されてるって書かれてるっぽい

 

1614年にイギリス人のウィリアム・アダムス(三浦按針)が、上司の命令で肥前(現在の佐賀、長崎)の平戸からシャム(現代のタイ)に行こうとして、乗ってた中古を改造した船が浸水を起こして緊急で琉球那覇港に寄港して、

船の修理して1615年に平戸に戻って、琉球から持ち帰った「琉球芋」を平戸で畑を借りて農民に委託して栽培した、ってアダムスの上司のコックスの日記に書かれてるっぽい

 

1697年に安芸広島の武士の宮崎安貞の書いた「農業全書」に、

「薩摩や長崎周辺では「琉球芋」または「赤芋」と言い広く栽培されているが、他地域では知られていない」

って書かれてるっぽいので、たぶん薩摩と長崎以外ではサツマイモは定着してなかったっぽい?

 

1732年に享保の大飢饉で瀬戸内地方を中心に西日本が大凶作になって、深刻な食料不足だったけど

サツマイモを栽培してた伊予国大三島の周辺では餓死者が全く出なかったので、サツマイモが一躍注目をあつめたっぽい

1719年に京都郊外で酒や餅とともに焼き芋が売られてた、って文書もあるっぽいしこの頃の西日本では芋文化は広がってたっぽい?

 

 八丁堀の与力にいいねされて、大岡裁きで有名で享保の改革にも関わってる町奉行大岡忠相に才能を買われた青木昆陽がサツマイモすごいって感じの文書を徳川吉宗に献上して、1734年に薩摩藩から苗を取り寄せて、1735年に栽培成功してこれ以降、東日本でも広く作られるよーになったっていう

 同じ時期に江戸幕府はジャガイモも作るの推奨してたっぽい

 

その前にも食料のとぼしい八丈島で芋の栽培に力入れてたけど、上でも書いたみたいに農作物の大量生産成功して食糧に困ってない江戸でもサツマイモを大量に食べれるよーになったのは青木昆陽の影響と思われ

 

1789年に書かれたサツマイモ料理本の「甘藷百珍」に、「塩蒸し焼き芋」って料理が載ってるっぽい

これは先に刊行されて大人気になった「豆腐百珍」を真似して作ったもので、内容を芋料理に変えただけっぽい
しかも一番最後に書かれてる「塩蒸し焼き芋」がこの本の中で一番おいしい料理って書かれるオチまでついてる高度な本でぃす

ここまで読んできたことは一体何だったのってなるでぃすね

あと江戸時代の料理本あるあるで分量は一切書かれてないっぽい

江戸っ子は大雑把でぃすからね、しょうがないね

 

1793年に本郷四丁目(今でいう文京区)の木戸番が、芋を焼いて木戸番屋で売り出して人気が爆発的に大ヒットしたっぽい

ちなみに木戸番ってゆーのは、江戸のあちこちにある防犯用の門の前で、夜に悪い人が侵入しないよーに見張る仕事のことでぃすね

木戸番の給料はそれぞれの町内から支払われてたらしいけど、相当給料低かったらしくて、副業として食べ物とか生活雑貨を売ってたっぽい

それがかなり好評だったぽくて、副業の方が儲かる上に、副業の方が本業って住民に勘違いされてたりしたっぽい

 

 え、肝心の防犯率はどうだったって?

 町の通りにでっかい防犯の門を建てたはいいけど、路地の入り口の警戒がザルだったので裏から他の町へ出入りし放題だったっぽい

 しかも番人は番屋って建物に住み込みで妻子の無い男性しかダメだったはずなんだけど、江戸時代後期になると、勝手に番屋を拡げて妻子を住ませちゃったり、番人の職を売買しちゃったりしてたっぽい

なので悪い木戸番は町奉行所でも取り締まったらしいけど、

その奉行所で働く与力や同心の下で働く岡っ引って、表裏両方の社会で顔が利く人材が多い、ってゆーか現役の方も多かったっぽくて、そのせいで岡っ引自身が悪いことに加担するみたいなこともあったっぽい、江戸の町テラカオス

 

 話がずれたので戻すけど、

1832年に書かれた「江戸繁盛記」では

「木戸番屋では早朝から深夜まで焼き芋が売られ、裕福な人も貧しい人も好んで食べるため、一冬で番屋一軒の売上は20~100両にも達する」

って書かれてるっぽい

1両は現代のお金にすると時期にもよるけどだいたい10万円くらい

一冬で200万~1千万くらいっぽい

 これは本業って思われてもしょうがないでぃすね

 

 なお、本業の木戸番の給料は、

月末ごとに1軒につき20文~100文を家主が集めて、集計してその中から木戸番の給料が出されるっていう

1文は現代のお金にするとだいたい25円くらい

1軒500円~2500円くらいの中からさらに削られて・・・・これは焼き芋売るしかないよね

 陸奥守がそんなに生活に困ってたなんて、煮たか先生のイラストにまさかそんな意味があったとは、とか適当なことを言ってみる

この給料で悪い人に遭遇しちゃったら捕まえる義務まであるっていう

奉行所も無茶ゆーでぃすね