鶴丸から二通目の手紙が届いたでぃす
以下、ネタバレでぃす
まぁ元寇の後の平定はたしかに大変だっただろーけど
その後に9代目になったときの貞時は14歳だし、実際は時宗の部下だった安達泰盛って人が政治仕切ってたっぽいけど
安達泰盛は「弘安徳政」って改革で、90以上の法令を出したり改正したりしたんだけど、これがかなりすごいことだったっぽい
鎌倉時代の法律では「不易法」と「年季法」ってのがあって、
不易法はすでに一回出された判決は改めちゃダメって法で、
年季法は20年以上継続して支配した土地は、どんな不当な手段で奪い取ったものでもその支配者のものになる、って法っぽい
安達泰盛はこれを改革して、法律を改正できるようにしたっぽい
でもそれが一部の人たちから不評をかって霜月騒動になったっぽい
たとえば、物流を円滑にするために、河川の通行税や港湾使用税を全面撤廃して、それで儲けてた人たちから不評だったとか
他にも「神領興行法」ってゆー、寺社がかつて持ってたけど今は別の人が持ってる土地を寺社に返す、みたいなのもあったっぽい
これは元寇で「敵国負けろー」って全国の寺社が祈祷したので、その報酬だったっぽい
当時は祈祷をするのは、戦闘するのと同等とみなされてたので、寺社は元寇の後に報酬ちょうだいって言ってきたので、そのために作った法っぽい
当然だけど、今土地を持ってる人たちからは大不評だったっぽい
鎮西名主職安堵令ってのも作られて、これは鎮西(現代でいう九州)の名主の職を幕府が承認するって法令で、
昔は土地の所有者のことを名主(なぬし)って呼んでて、土地を所有し続けるには税金を支払わないといけなかったんだけど、荘園ってところに寄付すれば、税金免除になるのでみんな寄付しまくってたでぃす
まぁ中には武装して税金支払い拒否する名主もいたっぽいけど
鎌倉幕府は九州の名主を保証することで、鎌倉幕府の御家人化させて、実質九州を鎌倉幕府の支配下にしたかったっぽい
そして当然だけど、今まで名主から土地をボッシュートできてた荘園もってた貴族や寺社から大不評なわけで
鎌倉幕府ちょっともちつけってゆーか、もうちょっと根回し的なものも必要だった感じもあるかも
霜月騒動のときって、北条貞時は15歳で判断能力も年相応しかなかったっぽくて、
平頼綱とかゆー人が、貞時の乳母の夫って立場を利用して貞時をそそのかして、安達泰盛を奇襲して倒して、他の安達派の人たちも倒しちゃったっぽい
あとは平頼綱のやりたい放題で、安達家に関係があるって思われるような人たちに因縁つけまくって次々襲って強引に財産没収して、それを今まで未払いだった元寇の報酬としてばらまいたって感じ
鶴丸国永は安達泰盛の孫の安達貞泰が持ってたっぽいけど、霜月騒動のどさくさでいつの間にか北条貞時が持ち主になったっぽい
とま~最初は調子よかったんだけど、泰盛派の生き残りの有力御家人からの反発がやっぱし強かったので、平頼綱はその人たちに圧力かけよーとして高圧的な強権政治やらかしちゃって、
北条貞時もさすがについていけなくなったっぽくて、永仁の大地震のどさくさ紛れて頼綱をやっちゃったっぽいけど