天使なブログ

ゲームだったり本だったり徒然なるままに書くブログ

二通目

大阪城ぐーるぐる回ってたら、三日月から手紙が届いたでぃす

以下ネタバレ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

天下五剣については、今のところは江戸時代にかかれた「享保名物帳」が最古っぽいけど

本阿弥家ってゆー、室町時代から続く刀剣の研ぎ専門の集団がいたらしくて

いろんな刀剣を研ぎしてた記録をたくさん残してたっぽいので

1596年(慶長元年)に豊臣秀吉が九代目の本阿弥光徳(ほんあみこうとく)を「刀剣極所」(とうけんきわめどころ)に任命して、昔からの記録を元にして刀剣の鑑定のお仕事もしてたとかで

価値を紙に書いて、保証書みたいな感じで発行してたっぽい

それがのちに「折り紙」って名前になって、何かの価値が保証されてるのを「折り紙付き」って言い方になったとかで

とうらぶだと、修行の手紙が折り紙みたいなものなのかな?

 

無銘の刀剣に鑑定銘を入れてたそーだけど、その鑑定を「極め」って呼んでたっぽい

審神者がその神がどーゆー性質なのか鑑定する仕事なら、本阿弥は刀の価値を鑑定する仕事、みたいなものなのかな?

修行でたまに人間らしき人物が登場してるけど、本阿弥か関係のある人なのかな?

 

豊臣秀吉が本阿弥家に鑑定の許可だしたのは、刀剣の鑑定をしたかったってゆーより、その刀剣に価値付けするのが目的だったっぽい

昔は武士への報酬の支払いって土地で行われてたけど、天下とって敵がいなくなってしまったら、報酬であげる土地がなくなるってデメリットがあったっぽい

そこで織田信長が茶器に価値をつけて、土地の代わりにしよーとした、ってのは有名な話だけど

秀吉も同じよーに、刀剣を茶器のよーな価値をつけたかったっぽい

最初は信長と同じよーに、茶器でいこーとしたんだけど、

1587年(天正15年)の「北野大茶会」の後に、千利休と音楽性ならぬ茶の湯性の違いでグループを解散してしまったので、路線変更で刀剣に目を付けたんじゃまいかと思われ

千利休は庶民も参加できる気軽なものにすべき、って考えてたけど、秀吉は茶器に価値をつけるためにあんましリーズナブルになられると困るって事情があったっぽい

 

 

十三代目の光忠って人が、徳川吉宗から命令されただとかで、1719年(享保4年)に享保名物帳を作ったっぽい

名刀の格付けのためみたいな内容っぽい

 

けど、この享保名物帳の裏付けになるよーな他の資料がないっぽいので、ほんとーに室町時代からそんな呼ばれ方あったの?そんなに有名ならなんで他の資料には載ってないの?って疑問に思われてる部分もあるっぽい

しかも原本は焼失してて、写本や転写本しか残ってないっぽいのでちょっと不確実な感じってゆーか

それに、記載したら幕府にボッシュートされちゃうんじゃないかって思った武将たちが自分たちの刀剣を隠したケースもあるので、全部の名剣名刀が載ってるわけじゃないっぽい

とうらぶだと大般若長光山鳥毛とかがそのケースっぽい

もしも豊臣政権が続いていれば、三日月宗近は豊臣家の持ち物ではなくねねの個人的なものだったっぽいので、天下五剣って名称もなかったのかもしれないでぃすね