小竜が修行から帰ってきたでぃす
以下極のネタバレ
着こむのかと思ったら脱いでくるとか予想外でぃすね
明石といいなんで胸全開にするのん?
ま~小竜のは元主のアレなんだろーけど
元主に関係のあるっぽい台詞になってはいるけど、なんか乙女ゲーがちらつく台詞多いかも
本丸の手元に留めるうんぬんの台詞は井伊直弼で、
目利き台詞は明治天皇かな?
ここまで複数の元主がわかりやすく混ざってるのってあんましない感じ?
なんでこのキャラクターが乙女ゲーになるのかよくわかんない発想だけど
そのせいか、いまいち小竜のキャラが掴みにくい印象あるんでぃすよね
修行の手紙の感じだと、楠木正成メインになってるっぽいけど
まぁ燭台切も逸話があやふやな部分あるけど、修行先はあんな感じだったし
手紙でどの路線メインか一本化したのはわかりやすくていいのかな、って思うかも
楠木正成については、有能だったっぽいけど、ま~上司に恵まれなかったよね、ってゆーか
ここから先は、創作色が強めって言われてる「太平記」や、足利尊氏の正当化がちょっと強めな「梅松論」とかを参考にした個人的な考えなので、これが史実かどうか信じるかはあなた次第って感じで
尊氏がすごい強かったので次に兵力増やして来たらやばいって思って、新田義貞をころころしてその首で尊氏との和睦するのを朝廷に進言したけど、
勝ったのになんで和睦する必要があるのか、そんなことを言い出すとか尊氏の方につくつもりじゃないのかって逆に怪しまれて、公家たちに却下されたっぽい
(ただこれは梅松論にだけ書かれてる話で、太平記には載ってないっぽい)
その後態勢を立て直した足利尊氏が10万の兵で攻めてきたときに
正成は相手は大軍でまともに戦っても勝てないので、天皇に一度山に退却してもらって、
その間に新田義貞軍と正成軍で京で尊氏軍を前後から挟んで、兵糧攻めで疲弊するのを待ちながら、別の場所にいる味方の軍が集まってきてから攻める、って提案をしたけど
後醍醐天皇は都を離れるの拒否したっぽい
(公卿の坊門清忠が、天皇が年に二度も都を離れるのは体裁が悪い、って天皇に提案してそれが採用されたせい、って言われてるっぽいけど
それが書かれてるのは創作だって言われてる太平記で、それも原本に限りなく近いって言われてる古い太平記の写本では、坊門清忠自体が登場しないっぽいので、後世の創作の可能性が高いっぽい?)
なので、ゲリラ戦が得意の700人程度の少数部隊の正成軍は、10万の兵隊相手に、身を隠すような場所がない河原で、正々堂々と真正面の戦いをする羽目になって、当然だけど数時間で負けたっていう
たしかに報われない感じかも
なまじ上手くいきすぎたせーで、甘い見通しの精神論でもいけるって思っちゃったのかな
まぁ個人的な考えでぃすけどね
太平記は創作強めって言われてるけど、梅松論は太平記の初版本をモデルに作られたんじゃないかって説もあるし、何を信じていいのか難しいでぃすよね
この頃の武士はまだ歴史資料を残すって考えがないので、物語ぽくても歴史資料っぽい感じ
我妻鑑も当時の資料を武士が作ってなかったので、その頃に書かれた寺社の資料とか貴族の日記頼りで鎌倉時代後期に作られたものっぽいし
小竜の手紙の内容曖昧だったのもしょーがないのかも