江雪から手紙が届いたでぃす
以下ネタバレ
板部岡江雪斎って人は北条家に仕えてた田中泰行って人の子供で、
なんでか知らないけど、武士の家系だけど僧になって
本名は田中融成なんだけど、真言宗の僧だったので「江雪」って名前になって、そこから「江雪斎」って呼ばれるよーになって、
優秀だってことで北条氏政に見いだされて、跡目がなかった板部岡康雄の養子になって家督を継いで「板部岡融成」になって「板部岡江雪斎」になったっぽい
板部岡江雪斎は、外交官みたいなお仕事してて、
1573年(天正元年)に当時の主君の北条氏政の命令で、武田信玄の生死を確認するために甲斐に行ったけど、信玄の弟の信廉が影武者になってたので、信玄は生存してるって氏政に報告しちゃったりしたみたい
北条氏と武田氏の同盟が決裂して、北条氏は当時勢いのあった信長率いる織田氏と同盟を結んだけど、1582年(天正10年)に本能寺があって
そのせいで織田氏が治めてた甲斐国、信濃国、上野国が権利者不在になって、徳川氏、北条氏、上杉氏、真田氏とかの、みんなで土地の奪い合いになったんでぃすね
のちの天正壬午の乱って呼ばれる争いでぃすね
(しかし、武田家滅亡の3ヶ月後の、1582年6月2日に本能寺があって、その数日後に明智光秀が秀吉に倒されて、6月4日には家康は自分の領地に帰って、天正壬午の乱が始まるわけでぃすけど、たった数か月の間に起こったことなんでぃすよねこれって)
この乱で、氏直率いる北条氏と家康率いる徳川氏は信濃国の奪い合いしてたけど、そこに江雪斎が入って和睦外交した結果、
って条件で、北条と徳川は同盟組んで、いったん確定したみたいでぃすね
(補足すると、氏政は院政みたいな感じで、建前では隠居してたけど息子の氏直の代わりに政治してたんでぃすね)
でも、徳川が対北条氏の味方になってくれると思ってた関東の武将たちはその同盟にがっかりして、代わりに当時天皇の後ろ盾を得てブイブイ言わせてた羽柴秀吉に後ろ盾になって欲しいって頼んだらしいんでぃすね
でも秀吉はその頃はまだ西国にかかりきりで、あんまし真面目に取り組んでくれなかったんでぃすね
その間に北条徳川同盟はいけいけどんどんな感じで
北条氏は1585年1月に佐野の佐野宗綱を倒して、館林城の長尾顕長を倒して
9月に真田と皆川を平行して攻撃して、(皆川は講和して北条の領地になったっぽい)
真田領の沼田に侵攻して、翌年の4月にも再度侵攻して
1585年8月に家康も真田を攻撃して、1586年に再度真田への侵攻を計画したときに、やっと西国平定の終わった秀吉が関東に介入してきて間に入って未遂に終わったっぽい
ここからがちょっち長くなるけど、
1587年(天正15年)12月に、秀吉は北関東に国を持ってる武将たちに、北条氏が現在治めてる土地を認めるよーに言って、
北条氏には沼田領をあげる代わりに豊臣に従属するよーにって条件を出したっぽい
北条氏政、氏直親子に聚楽第行幸に参加するよーに言ったら、氏政が拒否したっぽい
徳川家康は、
徳川は北条の讒言は言わないし領地にも手を出さない
それでも来なかったら督姫を離別させる(つまり同盟破棄)
って氏政を説得したけど、それでも聞く耳を持たなかったっぽい
5月に、家康は北条氏政と氏直に、氏政の兄弟の誰かを上洛させるよーに言ったったぽい
それで8月に氏政の弟の北条氏規が上洛して
12月に、氏政が弁明のために上洛するって言ってたけどやっぱり上洛しなかったっぽい
1589年(天正17年)2月に、板部岡江雪斎が上洛したっぽい
江雪斎は北条氏規と一緒に北条と豊臣の関係修復を頑張って、北条氏政と氏直の親子の上洛を秀吉に約束して、秀吉も江雪斎のことを気に入って、自ら江雪斎にお茶をたてたって逸話があるっぽい
その頃、秀吉は北条氏が従属する条件の沼田領の裁定をしたっぽい
秀吉は北条氏と家康から事情聴取して、
沼田領の3分の2を北条氏、3分の1を真田氏のもの、ってことにしたっぽい
その結果、沼田城は北条氏のものになって、真田氏には代替地として信濃国箕輪の土地をあげたっぽい
(真田氏は元々代替地をくれるなら沼田城をあげてもいいと徳川に言ってたので、真田氏も納得の内容だったっぽい)
で、同じ年の10月に、真田領の名胡桃城に、沼田城の城主の猪俣邦憲が攻めてきて城を武力で奪っちゃったっぽい
それを真田氏から徳川氏を通して秀吉が知って激おこ
豊臣氏は、名胡桃城を攻めた関係者の引き渡しと処罰をするよーに言ったけど、北条は拒否ったっぽい
これで秀吉は小田原征伐を決めたっぽい
戦の内容は長すぎるので省略して、結果だけゆーと、22万を超える大軍に包囲された北条氏政、氏直親子が降伏して終わったでぃす
先に書いた通り、北条氏は他の関東の国々からあまり好かれてなかったので、関東の国々は秀吉の側について、同盟組んでた徳川も説得に応じない北条氏を見放して、北条と一緒に関東攻めてた伊達氏も秀吉側について、それ以外の国の武将もみんな秀吉側になっちゃって、孤立無援になったのが敗因な感じ
(当主の氏直は一番の責任者だったんだけど、自分の命と引き換えに全員の命を助けてほしいって申し出て、それを聞いた秀吉は感動して処刑をやめて高野山追放にして、
でも代わりに責任取る人は必要だよねってことで、北条氏政とその兄弟と重臣たちが処刑されたっぽい
家康は氏政の助命嘆願したそーなんだけど、氏直を許しちゃった後だと難しかったんだろーなって感じ)
江雪斎は、小田原城で督姫を守って、小田原城が開城されたときに家康に姫を引き渡して直後に生け捕りになったっぽい
江雪斎は激おこ秀吉に対して、
「戦を起こして北条家が滅んだことは江雪の思慮をもってもどうしようもない
むしろ滅ぶ運命だったのだろう
日本全国の大軍を迎えて一戦交えたことは北条氏の面目にとってこれ以上のことはない
遠慮せずに我が首をはねよ」
って感じのことを言ったっぽい
それを聞いて秀吉は
「処刑しようと思ったが、主人を少しも批判しないのはあっぱれ
命は助けるからこれからは豊臣に仕えよ」
みたいな感じのこと言って、江雪斎を秀吉の御伽衆(おとぎしゅう)にしたっぽい
御伽衆は、室町時代後期から江戸時代初期にあった職業で、将軍や大名の側近として雑談に応じたり、自己の経験談、書物の講釈とかをしたりする仕事っぽい
でも江戸時代には自分の趣味の若い子ばかりを起用するよーになって、ただの遊び相手って意味に変化したっぽい
1596年~1615年に御伽衆の笑い話を編集した「戯言養気集(ぎげんようきしゆう)」って書物が出版されて、御伽衆の講釈話が庶民に広がって、やがてそれが講談や落語になっていったっぽい
豊臣秀吉はその出自から、読み書きが下手だったって言われてて、それを補うために他の大名よりも御伽衆がたくさんいたっぽい
「甫庵太閤記」の記述では800人くらいいたっぽい
(武田信玄は20人くらいだったっぽいので、かなり常識外れな数だったっぽい)
ちなみに秀吉の死後は徳川家康に仕えて、小早川秀秋を徳川に引き入れる説得をしたのも江雪斎っぽい
うん、長いよね、江雪斎の経歴
省略してるけど、戦どんだけあるのってくらい多いでぃすね
戦国時代って呼ばれるだけのことはあるってゆーか、直接戦いはしてないけど関わってる戦い大杉って感じ