天使なブログ

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お好み焼きの話

とうらぶ無双発売一周年っぽい

 

 

今日はお好み焼きの話

 

お好み焼きの祖先は、奈良時代に大陸から渡来した「煎餅」って料理らしい

ただ、煎餅は小麦粉をクレープ状にして、その中に調理した具材を入れる、食べ物の容器替わりに使うもので、それ自体はメインじゃなかったっぽい

日本の粉食は、団子と麺類が大人気だったので、煎餅は人気がなくて広がらなかったっぽい

 

やっと煎餅の派生の料理ができたのは室町時代後半のいわゆる戦国時代

千利休が「麩の焼き(ふのやき)」って茶菓子を発明したっぽい

うどん粉を水や酒で練って、生地を薄くのばして焼いて、芥子の実とかを入れ、山椒味噌や砂糖を塗った生地を巻物状に巻いた料理っぽい

お好み焼きの原型って言われてるっぽい

 

これが江戸に渡って、中身を餡に変えたものが寛永の時期に「助惣焼(すけそうやき)」って名前で売られたっぽい

ちなみに、助惣焼は四角形の1枚の小麦の皮で餡を包んでいる形状で、楽器の銅鑼(どら)で焼いてたのでそんな形になったっぽい

なので、別名「銅鑼焼き」とも呼ばれて、今のどら焼きの祖先って言われてるっぽい

 

幕末から明治にかけて、水を溶いた小麦粉で文字を作ってそれを食べる遊びが流行って「文字焼き」って言われて、それが「もんじゃ焼き」の名前のもとになったっぽい

現在のもんじゃ焼きは昭和30年くらいに、西日本で流行っていたお好み焼きを再現しようとして出汁が多すぎて偶然できた料理で

それ以前は蜜の入った具なしの甘い生地を焼いて食べる子供のおやつの名前だったっぽい

 

大正時代に、東京で「どんどん焼き」、大阪で「一銭洋食」ってのができたっぽい

どんどん焼き」は関東から東日本へ、「一銭洋食」は近畿から西日本へ広がっていったっぽい?

ここらへんは正確な情報が少なくてはっきりしないっぽい

 

「一銭洋食」は、大正時代の近畿地方の駄菓子屋で生まれたものっぽくて、水で溶いた小麦粉に刻んだネギや肉片を乗せて焼いて、ウスターソースを塗ったものっぽい

近畿には有名なネギの産地があるので、安価なネギが使われたっぽい

特に大阪のネギは大陸から渡ってきた原種に近くて、粘り気があって、甘みが強いので、子供向けの食べ物に使われたのかなと思われ

当時は外国からの舶来品扱いだったソースを味わうための料理で、それ以外はソースの土台みたいなものだったっぽい

 

どんどん焼き」は、大正から昭和10年くらいまで関東を中心に流行してた、路上の屋台で食べる鉄板料理で、大きさで値段の違いがあって、通常は手のひらサイズだったっぽい

現在のお好み焼きに近いものもあったっぽいけど、種類が非常に多くて、なかには小麦粉を使わないのもあったっぽいので、どんどん焼きは特定の料理の名前ではなく、鉄板で作る料理全般の名前だったと思われ

たぶん現在のお好み焼きに近いものには固有の名称がなかったと思われ

(何か他に人気のある料理が存在して、主役になれなかったケースかも?)

なので単独の料理である一銭洋食との違いはそこかな~と思われ

関東では戦後はどんどん焼き廃れたらしいけど、東北地方の一部ではローカルフードとして定着したっぽい

 

お好み焼きが主食扱いされるようになったのは、昭和30年くらいになってからっぽい

昭和20年くらいの戦前までは、主食は米が不動の地位にあったので、粉物は子供のおやつか、お酒のおつまみの扱いだったっぽい

でも戦後の食糧難でお米が手に入りにくくなったので、なんでもいいからおなかをいっぱいにする必要があって、子供のおやつ扱いだった粉ものが主食になったっぽい

元々はソースを味わうための料理だったものが、

土台の部分が主役に、ソースが脇役に入れ替わっちゃった感じ

(ま~今はソースとか珍しくなくなっちゃったので、当時のそーゆー感覚はわかりにくいかもだけど)

つまりはお好み焼きは戦後の飢えから生まれたものってゆーか

 

お好み焼きでキャベツが多いのも、食糧事情がよくなかったので、安価なキャベツでかさ増しして、少しでもおなかいっぱいにしたかったから、って感じっぽい

文字焼きがもんじゃ焼きに変化したのも、それだけ子供も日常的に飢えてたってことなのかも