今日はこどもの日でぃすね
こどもの日のネタが思いつかなくなってきた今日この頃でぃす
チマキって、大陸から渡来したらしいけど、日本のチマキはちょっと違うっぽい
大陸のチマキは、もち米にタケノコとかお肉とかを入れて、甘辛く味付けしたものを葦の葉で包んであるけど
日本のチマキは、お餅を葉っぱで包んでるっぽい
今のチマキは笹の葉っぱで包んでるけど、昔は「茅(ちがや)」って植物の葉っぱで包んでたので「茅巻き」って呼ばれるようになったっぽい
931年~938年の間に書かれた「倭名類聚鈔」の糉の項目に、
和名で「知萬木」って名前で、もち米を植物の葉で包んで灰汁で煮込んだものを5月5日に食べたって書かれてるっぽい
灰汁には殺菌力や防腐性があって、保存食として扱われたっぽい
南九州の「灰汁巻き」や山形の庄内の「笹巻き」ってゆー、笹で巻いて灰汁を使った料理があるっぽいけど、たぶん元ネタは同じものなのかなと思われ
「笹巻き」は、修験者の携帯食料説と、戦国時代に豊臣秀吉が保存食として採用したのが九州から北前船で北上して伝わった説があるっぽくて
「灰汁巻き」と「笹巻き」は共通点が多いので、後者の可能性もまーあるかもだけど
(北前船の到着してた坂田港周辺では灰汁を使わない笹巻きらしくて、灰汁を使った笹巻はそこから20キロ先の地域で伝来してて、その間の地域では伝来してないっぽい?
でも松山藩って酒井家だし、徳川の影響って気もするかも
酒井家って家康と親戚関係だし
酒井家の領地の港から離れてた地域にだけ豊臣の影響が残ってたって可能性もないではない気もするかも)
「むかし、男ありけり
人のもとよりかざりちまきおこせたりける返りごとに、
あやめ刈り君は沼にぞまどひける我は野にいでて狩るぞわびしき
とて、雉をなむやりける」
ってのがあって、意味は、
「男に、アヤメの葉で包んだ飾りチマキが贈られてきたので、お礼の歌と一緒に狩りの獲物の雉(きじ)を返した」ってことっぽい
平安時代では、端午の節句ってことで節会ってのが行われたっぽくて、飾りチマキを贈る風習があったっぽい
飾りチマキは、五色の糸や花で飾ったチマキのことで、平安時代は決まった葉っぱじゃなかったっぽい?
現代的な価値観だと、見た目的にはかわいい感じがするけど、これを男に贈り物で送るって、平安時代はちょっと乙女な趣味の人が多いのかな?
1697年(元禄10年)に書かれた「本朝食鑑」では4種類のチマキが紹介されてるっぽい
柏餅は江戸時代に作られたっぽい
ま~餅って名前だけど、もち米使われてないけど
個人的な想像だけど、柏の葉が使われたのって、江戸の人口増加への対処だったんじゃないかなと思われ
柏餅って、江戸時代中ばの、1751年~1764年の宝暦の時代に作られたっぽいけど
江戸時代初期は江戸でもチマキだったらしいんでぃすね
でも江戸は人口がずっと右肩上がりだったので、上がり続ける需要に供給が間に合わなくて、関東で手に入りやすい植物の葉っぱになったのかなと思われ
チマキみたいに丁寧に巻かなくても、さっと巻くだけで済むから、時間のコストダウンにもなるし大量生産しやすいし
何より質素倹約を美徳にしてた武士社会では、豪華な食事は忌避されがちだったし、受けがよかったのかも
長い間戦がなかったので、保存食としてではなく、嗜好品に変化したのが柏餅かも?
柏は子孫繁栄の縁起物らしいけど、柏があるから子孫繁栄してるのか、子供が多すぎたから柏の葉を使わざるを得なかったのか、よくわかんないかも
ここまで考えて思ったけど、もしかして柏餅がもち米じゃないのって、飢饉対策なのかな?
そーいえば宝暦って、大きな飢饉のあった時期だったし
被害にあったのが東北から北関東までらしいので、柏餅が広がった地域と一致するっちゃするし
宝暦の飢饉って、江戸の三大飢饉の中には入ってないけど、一応江戸にも影響あったってことかな?
影響出る前に先に対応しすぎて、意識されてないだけとか?
味噌の入った柏餅もあるっぽいけど、味噌って戦国時代だと保存食として使われてたっぽいし、元々は飢饉対策だったのかな?
たしかに飢饉のときだと、先のための保存食作るより、手早く食べれる柏餅の方が需要あるのかな
(ま~先のこと考えてないから飢饉のときの蓄えがないって言えるかもだけど)
って、こどもの日にする話じゃない気もするかも